同じ日のことを思い出して

また四月がきたのにもう去ってしまった。2020年春、家に閉じ籠り続けた結果他人がフィジカルに存在することを忘れそうになった季節として記憶されるとは。

眠る前に、本当に次に起きたらわたしが存在するのか不安に感じることがよくあった。高校生くらいかな。眠って目が覚めたら違う人の肉体に入っているんじゃないかと。

最近は、スマホやラップトップの画面の向こうの人たちが本当に実在するのかあやしいな、と思う。もちろん実在するんだけど、実在してもしなくてもおなじことのように感じられる。

もともと春は苦手だ。歓ぶことを強制されているみたい。実際は三寒四温と気圧の変化に振り回されるだけなのに。

 

オンライン飲みが突然流行ったのは、3月の終わりくらいだったと思う。わたしも何度かしたけど、やっぱり味気なさが好きになれない。中途半端にコミュニケーションを取るくらいなら、と思って控えるようになった。こんなに只管本を読んで料理をする日々はたぶん今しかない(はず)。

仕事はむしろ忙しくなっているのだけど、ある意味晴耕雨読というか、昼働いて夜好きなことに没頭できるので満たされているといえば満たされている。

ときどき恋しくなるものは、バーカウンターのジントニックのきりりとしたつめたさ、赤提灯の隣人の声が聞き取れないくらいの騒がしさ、焼き鳥のお店の煙のにおい。だれかとどこでご飯を食べるか決め、お店でメニューをみて選ぶこと。あるいはコースの高揚感。

自炊は好きだしそれなりにたのしんでいるけれど、ある材料のなかで作れるものを作る理性的な行為なので、食体験としてのよろこびたのしみはやはり別物だと思う。最初のころは「これ食べたい!」起点で献立を作っていたけど、なかなか意欲が続かない。プロの味がどうしたって恋しくなる。

でもプロの味って、お店の空間やサービス込みでこそ成り立つものなんだよな、としみじみ実感した。1万円のコースと1万円のテイクアウトだと、価値が全然ちがうもの。

 

四月最終日の今日はすごく暑くて、風さえなければ真夏の日差しといっても差し支えないくらいだったのだけれど、こうやって季節に追い抜かれていくのだろうなと思った。

つぎに体感できる季節はどれになることやら。わたしはまだ冬と春のあわいで立ち止っているようにおもう。