梅雨の晴れ間に

インプット依存症だったのかもしれない。

毎週予定をぎゅうぎゅうに詰め込んで、予定のない日は自分で予定をつくって、そうやってなんとか自分の機嫌をとる方策を枯渇させないようにしていた。強迫観念があったように思う。

もちろんすべて好きでやっていたことだけど、チケット争奪戦で一喜一憂したり推しの公演で感情がバグったり狂ったように海外旅行の予定を入れたり、なんだか一人でお祭り騒ぎしていた。

ほぼすべての楽しみを取り上げられて、強制的に現実から逃げる手段を奪われて、突然目が覚めた感じがする。

 

外に出なくなったので読書や映画鑑賞をするかと思いきやそうでもなく、ぱったりとすべてのインプットに対して熱が冷めてしまった。

周りにオタクが多すぎるせいかもしれないけど、ありとあらゆるものがオタク的言説に収斂する気がして、それにマンネリを感じているのもあるかもしれない。何を見ても似たような評価が聞こえるというか。

 

まあでもそれなりに楽しくやっている。娯楽のない世界でも色褪せたままにしては生きていかれない。

最近は掃除が好きだし(一番嫌いな家事だったのに、すごい変わりよう)、ずっと行かなきゃと思いつつ先延ばしにしてた歯医者にも行けてるし(結構通わなきゃいけなさそう)、料理家のレシピを見つけては試したりしてる。

美術館や映画館には行きたいし、幕が上がれば劇場にも行きたいけど、前ほど熱狂はしないだろうなあ。仁左衛門さんが冨樫やります!とか、みりおさんがトートやります!とかじゃない限り……(想像したらちょっとテンションが上がり、おのれの現金さを知る)

 

高校生〜社会人になりたてくらいが、一番生きづらかったように思う。いろんな基準とか、自分でこうありたいっていうレベル、ルールに縛られて雁字搦めになっていた。

仕事も家事もプライベートもそうだけど、20代も終わりにさしかかって、やっといい塩梅がわかるようになってきた気がする。

料理は出汁から取らなくていいし、仕事は多少失敗しても全然問題ない。まあ、修羅場とかはたまに起こるけど、それでもだいたい乗り越えて生きてる。

大人はたのしいぞ。

でも、大人がたのしいかどうかは、それまでにどれだけの感情に出会えているかにかかっているように思うから、子供時代はあれでよかったんだろう。

 

劇場を非日常空間として愛してきたけど、もしかしたらもう非日常は必要なくて、日常の一部として愛せるようになってきているのかもね。

それはわたしにとっては、とても健全なことのように思える。