the happy few

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縁を思う春の終わり

ある程度まとまった時間会っていない人に再会するのは、大抵の場合喜びよりも恐怖じみた緊張が勝る。それまで積み重ねてきた時間が長ければ長いほど、空白の時間は重くのしかかる。たとえ半年だろうと一年だろうと、その時間のどこかに人をがらりと変えてしまう切欠が転がり落ちていないと、誰が保証できるというのか。

 

SNSができていい時代になったと云う人がいる。でも、誰かの日常から姿を消した自分が浮き彫りになるだけ。測らずに済んできた距離が相対的に明白になり、そこにいない自分の姿が炙り出されるだけではないか。人々を近づけるツールなんてものではなくて、ただ点と点の距離を可視化しただけだ。だから、本当にその距離が大切な人とはSNSで繋がるべきでないと思う。おおむね害悪。

 

思えばこれまであった出会いの中で、自分という人間を見せて、心に侵入させて、その言動に影響を受けてもいいとまで思うような仲になった人は少ない。そのまま交流が続いている人はもっと少ない。

でも、そのような仲になった人と交流が途切れるのは当然のような気もするし、あるいはまたいつか再開したときに当時の自分の認識のままでいてくれるので、ある意味記憶装置として機能するとも言える。生活の中で失われていく多面性を切り離して担保していてもらう、とでも言おうか。

 

復縁という言葉は主に男女の恋仲に使われるものだと知っているけれど、恋愛に限らず縁が戻る、復活することはあるのだと知った。

二度と話すまいと、意志ではなく予想として思っていた相手とまたじっくり話すのは、意外な発見があったりあるいは心地よかったりと、得るものがある。

ケースバイケースではあるけれど、その後生活の中に鎮座するのか、もしくは非日常の候補として存在することになるのか、という距離の問題になっていくのだろう。いずれにせよ存在が更新されていくということが重要なのだと思う。

 

昔蒔いた種はそのとき花を咲かせなかったら無意味、なのではなく、そのとき芽でも出ていればいつかじっくり時間をかけて咲くこともある。そう思えば、歳をとることも悪くない。そんなことを感じながら、足早に季節が過ぎ去るのを横目で見ていた。