春は修羅

映画を見る。音楽を聴く。本を読む。ひとに会う。そうやって平坦な一日一日が過ぎていって、気づいたらおばあちゃんになっているんじゃないかと思って怖い。多分わたしは貧乏性なのだ、時間に対して。

カレンダーや予定表が埋まっていないと怖いのは、誰かから刺激を得たいとか誰かと一緒にいたいとかそんな理由じゃなくて、むしろ自分の空白の時間(ひとはそれを退屈と呼ぶのかしら)を恐れているだけなのだ。ただの空白の一日ってたまにあるご褒美だからありがたいんだと思う。ただの空白の一日が何万日か続いたら人生は終わるんだよ、何もない人生でしたって。


空白を埋めてくれることはいくつかあって、仕事と恋愛と趣味と勉強。大体このどれかにカテゴライズされる。友人に関しては、ある種恋愛に分類される子もいるし、ある種の勉強である子もいるし、むしろこれらの空白を一緒に埋めていく戦友みたいな子もいるから一概に言えない。
仕事と恋愛に関してはもうある程度自分の進むべき道が見えて、頭を使うことが本当に少なくなった。仕事、勉強にカテゴライズされるもの以外はもはやルーティンになりつつあって、いつか自動化されるんだろうなって妄想したりしている。仕事の中の勉強は自分のまだ持ってない知識や経験だから面白いけど、それがなくなったら働く理由って本当に、ない。

そして趣味。今までありすぎてむしろ無趣味だなって思っていたけど、ただただ何に対しても中途半端なだけだな。三口目くらいまでのおいしいところだけ食べてあとは飽きちゃうから、って誰かにあげるのと同じことをしているような気がする。読書は好きだけどかなり偏ってるし、映画観るのも好きだけどそれは決められた時間じっとしていれば物語を消費できるところが気に入っているだけなんじゃないかと思うし。旅行だってたぶんそうで、どこに行って何を見て何を食べるかを考えているときは楽しいけど、いざそれを実行すると過去の自分に決められた行程という意識が強くて純粋に楽しめない(かといって行き先だけ決めてあとは自由行動、は最大限楽しめないんじゃないかと思ってしまってチャレンジできない)。あああめんどくさい。自分といういれものがめんどくさい。

春という季節がいちばん嫌いだ。なにかにつけて感傷的で、どこかいい人ぶって見える。春、出会いの季節!とか見るともううんざりする。春はいっそ強制的なまでに内省的になって毎度参る。五月病とは多分また違う性質のもの。それこそ中途半端に、これまで来た道を振り返るタイミングが転がっているのがよくないのだろう。

最近はドラマを積極的に見たり私にしては珍しく積極的に人に会ったり、予定や気持ちやテンションを合わせたり、していたけれどもういいや。と思って今はひたすら英語とフランス語と料理の勉強をしている。料理の勉強、まだ始めたばっかりだけど自分の日常生活で活かすタイミングが多いから精神衛生によいのではないかとおもう。日ごろ利便性と効率性ばかり重視してクックパッドや電子レンジに頼った生活をしているので、せめて時間をかければきちんとしたおいしいものを作れる、という状態になっておきたいと思って和食とフランス料理の本を買って眺めたりしている。時短じゃないレシピでかぼちゃの煮つけをつくったら、多少の手間でものすごくやさしい味になって感激した。実際に自分で食べられるので、無駄な時間と感じなくてすむのもよい。

春は修羅だよ。だましだまし空白を埋めながらじっと堪えよう。とはいえ夏が楽園だとも思えないのだけれど。