初夢という名の祈り

LA LA LANDが公開してから、来月で1年になる。やっと1年、まだ1年。この映画についてはこの記事で思いのたけをぶちまけたけど、今でもフラッシュバックのようにシーンが蘇る。脳内で、あの音楽とともに。

どういう理由でかはわからないけれど、心を激しく掴んで揺さぶってくるものとの出会いは年々減っているように感じている。私の感性が死につつあるのか、出会うべきものにはすでに出会ってしまっているのか、あるいは別の理由なのかは知らない。最近は即効性のある一過性の劇薬みたいな興奮を買って、退屈を凌いでいる、と感じるときすらある。

 

LA LA LANDについて考えるとき、いつも最終的には人間関係の継続性について考えることになる。

人間関係はナマモノだ。関係性は一度獲得したら続けなくてはならない。義務ではないけれど、そうしない限りあっという間に失われてしまう。買ってきた花に水をやらなかったらあっという間に枯れてしまうとか、そういった原理。

例えば一時の親友なんて存在しなくて、一方あるいは両方による関係性を継続・維持したいという意思の存在が持続しなくてはならない。恋愛より友情のほうが厄介だと思うのはこのせいだ。友情は恋愛よりもよほどグレーで流動性が高い。相手をたった一人に絞る必要もなく、意思確認のイベントも格段に少ないからだ。

 

初夢を見ることに、わくわくしなくなったのはいつからだろう。

夢の内容は、残酷なほどアンコントローラブルだ。見る人の意志なんてお構いなしのキャストと脚本。夢を見るのが怖くなったのは、夢に出てきてほしい人よりも出てこないでほしいひとのほうが増えてきたから。たとえ初夢にみたところで、正夢にはなりえない。そんな人が増えてきて、たぶんこれからも増え続ける一方だから。

そういう人たちとは、きっぱりと決別できていないのだ。ミアとセブが二人の分岐点をそれぞれの言葉であらわして、繋いだ手を離したような、決別が。決別する機会すらきっともうない、空白の時間に薄められた関係性を見せつけられて、打ちひしがれる。それが怖いから、夢を見ることはもう好きになれないと思う。

デパコスというドーピング

年に4回くらい、どうしてもデパコスを買いに行きたくなってむずむずする時期が来る。大体は季節の変わり目で肌の調子が不安定だとか、ネットで新しい商品のパッケージを見てそれが可愛いのでほしいだとか、そういったきっかけだ。

 

すっぴんが可愛い女の子のことしか信用していないすっぴん至上主義者ではあるが、とはいえいざ自分のこととなると背に腹は代えられないので、お化粧というものをそこそこ嗜むようになった。

真面目に始めたのは大学に入ってからだったので、遅すぎも早すぎもしないだろうというところ。「化粧品と言えばシャネル」と言って憚らない母の影響で、あまりプチプラコスメは買わない主義だ。

 

化粧をすることと自炊することは私にとって同じジャンルに入っていて、どちらも自分を大切にしている/する余裕がある、と実感するための手段だ。

化粧といってもスキンケアに力を入れるだとか生活リズムをできる限り正しくするなど、その前後のフェーズも含まれているから、言わば「丁寧に暮らせているという実感」を得るために行うルーティンである。

だからデパコスを買うことは、私にとっては少しいい塩、オリーブオイルやドレッシングを買うとか、たまにジャンポールエヴァンのチョコレートを買うだとか、そういった購買行動と同じカテゴリに属している。

 

そういう位置づけであるから、ときどき買い足す化粧品はデパコスである必要がある。わけのわからないフレーズを繰り返すBGM、赤字で強調された値段、ぺらぺらのPOPに囲まれた、できる限り生産コストを落とした企業努力のたまものには、そういう効果はないからだ。ドラッグストアはあくまでも「必要なものを買い足す場」でしかない。

こちらを値踏みするような一瞥をくれる美人のお姉さん(化粧濃いめ強め)に綺麗な声で唆されて、そのパッケージを自分のコスメポーチに収納するところまで想像しながらタッチアップしてもらって、プロの手でいつもよりちょっと綺麗にしてもらうまでが、デパコスを買う効用だと思う。あと可愛いロゴのついたきちんと分厚い紙袋だってほしい、特に何かに使うあてがあるわけではないけれど。

 

自分の機嫌がどんどん高価になっていっている気もするが、自分で自分の機嫌を取るための一つの手段であることは確かだ。同時に、お金を稼ぐことのモチベーション維持装置でもある。

というわけでどなたかおすすめのパウダーファンデを教えてください。

2017年にインプットしたものまとめ

あけましておめでとうございます。
昨年はこのブログを1か月に1回は更新するというゆるい目標のもとゆるっと書き、色々な方に読んでいただけてたまに読んだよ報告や感想などいただけて、励みになりました。
長い間まとまった文章を書くという行為から離れていたので、リハビリのつもりで書いていたのですが、書きたいという欲求への刺激に対してここ数年の間ではもっとも敏感になることが徐々にできつつあるので、今年も虚実入り交えて続けていきたいと思います。お付き合い、どうぞよろしくお願いします。


確かこの4年ほど、「毎月10以上、年間120以上の物語を摂取する」という目標を掲げていて、読んだもの観たもの聞いたものはすべて手帳に記録しているのですが、ここで整理することで「こんなものを好んでいる人間ですよ」ということが伝わり、かつ自分の振り返りにもなるかなと思うのでちょっと総括してみます。

総論

1年間で摂取したのは135作品。そのうち本・映画・歌舞伎で102作品ということで、これらで75%くらいを占めていました。

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去年は突然歌舞伎を観に行く義務感のようなものに駆られ*1、特に下半期はチケット発売と同時に購入を繰り返すなど、何かに憑りつかれたかのように劇場に通っていました。その印象が強かったので歌舞伎ばっかり観ていたような気がしていたのですが、整理してみたら本33冊、映画34本、歌舞伎35作ということで意外とそんなに変わりませんでした。

各論

歌舞伎

35作品のうちトップ3を選ぶとしたら。基準が非常に難しいのですが、舞踊というよりも演劇面により重きを置いて判断するのであれば、『野田版 桜の森の満開の下』(八月納涼歌舞伎@歌舞伎座)、『仮名手本忠臣蔵』(十一月歌舞伎@歌舞伎座)、『人情噺文七元結』(十二月顔見世@京都ロームシアター)でしょうか。
歌舞伎っていろんな観方ができるのですが、私はやはり物語として摂取している以上話の展開やセリフに意識を向けがちで(そうでない場合は例えば役者さんの綺麗さ、演出、舞踊の振り、お囃子の音楽など色々あります)、その点でこの3作品は、未だに思い出す印象的なシーンをたくさん持っていたように思います。
基本的には古典が好きなので、近現代劇はあまり好んで観ないのですが、『桜の森の満開の下』についてはnoteで書いた通り色んな”たくらみ”を深読みしたり考えたりするのが楽しく、刺激的な作品でした。「鬼」というテーマに興味があるのでそこも引っかかったポイントかな。
note.mu

仮名手本忠臣蔵』と『人情噺文七元結』については、観ている側の感情を揺さぶる構成があまりに巧みで、それを演じる役者さんたちの演技があまりに見事で、忘れられない作品になりました。『仮名手本忠臣蔵』では、美しさって整然としたものと乱れたものと両方あるよなあということを思いながら、その救いのなさが色っぽく映りました。『人情噺文七元結』は泣いたり笑ったり忙しない、典型的な世話物。言葉のボリュームに圧倒されながら楽しみました。

今年も「少しでも気になったら観に行く」というスタンスは変えずに、若手層が出演する作品まで手を広げつつ、観た後に自分の中に積もるものを確認しながら観劇していきたいです。

映画

意外と観てるんですよね、映画。大学生の頃に比べれば減ってきていますが。劇場に行くよりも、Amazonプライムや機内で観ることのほうが多いです。
去年のTOP3は『LA LA LAND』『たかが世界の終わり』『作家、本当のJTリロイ』かな。どれも珍しく劇場で観たものですね。『LA LA LAND』についてはこのブログでも書きましたが、相変わらずサントラを聞くとうっとなるし、苛まれている映画です。お願いだからみんなデートムービーにしないで、個々人で観て過去に思いを馳せてその夜は病んで。
『たかが世界の終わり』はタイトルがあまりに気になって観に行きました。レア・セドゥが好きなのもあって。映画で描かれるのは家族のたった数時間の出来事なのに、それまでの何十年もの記憶や感情に思いを馳せてしまうつくり。「家族って、一番近くにいる他人だよね」と思える人々には、観ていて居心地が悪くなるくらい思い当たる節がたくさん出てくるんじゃないでしょうか。
『作家、本当のJTリロイ』は、吐き続けた嘘の数だけ、ばれた時に失うものが多いということをあまりに生々しく見せてくる映画。ということも考えつつ、「存在している/いない」って何を以ていえるのだろう、例えば十年以上前に会ってからもう二度と会っていない、生きているとも死んだとも聞かない人について、私の知らないどこかで今日も生きている=存在している、と言い切ることができるのだろうか?と考えました。答えはない。たぶんみんなどこかで騙されたがっているのだよね。

本と言いつつ歌舞伎関連のものを読んでいることが多いので、それを除外したTOP3を選んでみます。

前述した歌舞伎『桜の森の満開の下』の原作。坂口安吾って堕落論をはじめとした評論のイメージで、『白痴』などの物語は読んだことがなかったのですが、一貫して屈折した女性観がとても面白かったです。『夜長姫と耳男』は幻想的で残酷な感じ。谷崎潤一郎よりも酔ってなくて、三島由紀夫よりも寓話的、というポジションなのではないかと思っています。

水いらず (新潮文庫)

水いらず (新潮文庫)

たぶん実家から持ってきて手元にあったので読んでみました。ちょうどフランスに旅行に行った後で、パリが恋しかったので、この本の中の物語の黴くさい感じはとても心地よかった。今プルーストの『失われた時を求めて』を読み進めていて、これまで外国文学ってあまりきちんと通っていないので、今年は体系的に読みたいなと思っています。

往復書簡 初恋と不倫

往復書簡 初恋と不倫

去年どハマりしたドラマ『カルテット』の脚本家の坂元さんの著作。衝動買いしました。読み易いのですぐに読み終えてしまうのが勿体ないくらい面白かったです。往復書簡、つまり手紙やメールのやり取りだけなのにきちんと物語が進んでいくのがすごい。なかなか時間を進めさせることって難しいと思うので。カルテットもう一度観たいなあ。

その他

記録を眺めて思い出したことをつらつらと書き連ねていきます。

  • 銀座エルメスの展示がお気に入りになりました。「エルメスの手仕事」展も観に行って、カレ(スカーフ)製作の工程のお話をうかがったり。無料だし、銀座はよく行くのでふらっと立ち寄らせてもらうことが多いのです。
  • 5月には根津美術館に燕子花図屏風を観に行きました。お庭の燕子花もとても綺麗でした。
  • 食事という体験に興味を持ち、辰巳芳子さんの『家庭料理のすがた』、木村俊介さんの『料理狂』、サヴァランの『美味礼賛』、美術手帖11月号の『新しい食』等いろいろと読みました。また別の機会に書こうと思いますが、去年は「(味もさることながら)知的体験として通いたいお店」を見つけ、ときどきお邪魔しています。味覚を言葉にするのってなかなか難しいので、チャレンジしていきたい。
  • 年末にAmazonプライムで『少女革命ウテナ』を一気見しました。放映当時幼かったのであまりちゃんと覚えていなかったのですが、ウテナとアンシー、樹璃さんと枝織さんのことを考えると胸が苦しい…。『輪るピングドラム』が大好きなのですが幾原監督ほんとうにすごいし、寺山修司を読まなくてはと思っています。


今年も感情を揺さぶられるものにたくさん出会えますように!

*1:これまでも年に数回は観に行っていたのだが、八月の歌舞伎座を観て「歌舞伎って何なんだ?何の条件を満たせば歌舞伎と言えるんだろう?」と思うようになり、それを考えるためには数を観なくてはならない気がして通い詰めたのだった

中学生の魂はいつまで

今から13年ほど前に、死ぬほどハマったジャンルがある。テニスの王子様。私にとってありとあらゆるオタク活動の源泉はこれで、まさかこんなに息の長い作品になるとは思っていなかったけれど、この作品を経て得た、特に友人関係は大きかったので、今でも許斐先生には足を向けて寝られない。

この作品の中に、ラッキー千石と呼ばれるキャラクタがいる。もちろん(?)中学生、テニスプレイヤなのだけれど、「(俺って)ラッキー」が口癖で言葉通り運がいいのだ。13年間、このキャラクタのことがすごく好きというわけでもなかったのだけれど、何故かふと13年前に考えたことを思い出した。
ラッキーというけれど、人類のラッキーの総量はきまっているのではないか? 誰かがラッキーと思う傍らで、誰かがアンラッキーというはずれくじを引いていることが多いのだとしたら、ラッキーを重ねる千石はいつかどこかでしっぺ返しを食らうのではないか。

…とそんなことを考えて文章を書いた記憶がある。今考えると、ラッキーひとつでどれだけ規模の大きいことを考えているんだ、と少し可笑しくもあるけれど、こんなことを思い出したのは、テニスの王子様がまさかのアプリゲームをロンチしたことと、私自身がラッキーに見舞われすぎて少し不安になったことに起因する。

最近は複数ジャンルを追っかけているので、チケット取りの抽選などで運を使うタイミングが多いのだけれど、今年は何故か異常に運がよく、ちょっと来年以降の運気を脅かしているのではと思うくらいだった。特に11月。予約が取れないことで有名な京都の和食のお店の予約を力技で取り(お店の方に「よく電話通じましたね!」と言われた)、例のテニプリ(今年に入って再熱した)映画の応援上映チケットを抽選で当て、例のアプリゲームでは欲しかったSSRカードをあっさり引き、来年の椎名林檎のツアーチケットも無事に当て、極めつけは椎名林檎が出演した音楽番組の観覧を当てたことである。チャレンジした分だけ結果が出ていてそれをラッキーと呼んでいるだけ、という考え方もできなくはないけれど、あまりに結果が出すぎていて何か憑いているのではと疑う。いや、むしろずっと憑いていていただきたい。


11月25日は私にとって少し特別な日で、なぜならこれまでの人生を伴走してくれたクリエイタの誕生日であり命日であるからだ。私の中高時代は椎名林檎の音楽とともにあったから、今でも彼女の曲たちはメランコリックでノスタルジックで生身の感情をむき出しにさせるためのボタンだ。大人になって隠すことがだんだん上手になってきた、刺々しくて傷つきやすくて定まらない感情が、メロディや歌詞に刺激されるのを感じるとき、私はあっさりと過去に屈するしそこへ立ち戻ってしまう。滲んだ声のハミング、マフラーに埋めた唇で。あるいは浴室で。

だから彼女の誕生日から数日後の番組観覧に行ったとき、もうほとんど麻痺しそうなくらいにいろんな感情があふれ出て自分で整理をつけることが困難だった。たぶん一番は、生きていてくれてありがとう、生きていて創作活動を続けてくれてありがとう、という気持ち。彼女の音楽を道しるべにして、あるいは背中を支えてもらって、ここまで生きているという感覚がずっとあるから。

11月のなかばに、三島由紀夫の『告白』という本を買った。彼のインタヴュと、『太陽と鉄』という作品が掲載されている本。読み始めるのは11月25日まで待った。47回目の命日。彼のことに関する論文を書いてもう10年が経つけれど、未だにもっと知りたいし、その失われた流麗な言葉たちの波に漂っていたいという欲求が生まれることがある。私の心を揺さぶる物語であるというよりは、もう今は殆ど残っていない言葉や文体という空間に惹かれているのだろう。もしかしたら私が歌舞伎を熱心に観るのも、同じ欲求によるものなのかもしれない。


創作を続けるためには現実を生きてはならないという考えがいつからかどこかにあって、だから大人になることを恐れていた。大人になって得た言葉もあるけれど、多くはみずみずしさと共に失われてしまったという感覚がある。でも、ここのところもしかしたら大丈夫なのかもしれない、現実に蝕まれていてもやっていけるのかもしれない、と思い始めた。それは、テニスの王子様だったり椎名林檎だったり三島由紀夫だったり、色々な作品やクリエイタを媒介として、あの頃の言葉を再度獲得できるような気がしているからだ。

三つ子の魂百まで、というけれど、三つ子であったころの記憶はあまりなくて、私にとってプリミティブとも言える記憶や感情は大体が中学生のときのものだ。この魂は、いつまでアクセス可能であってくれるだろうか。

秋にして君を離れ

前回の記事から1ヶ月半、気づけば10月が終わろうとしている…。毎年思うのだけれど、10月に入ってからの時間の加速具合って本当に異常。今年もあと2ヶ月です。
ちなみに前回の記事は、実際に去年体験したことを江国香織風に脚色してまとめたものです。起こった瞬間に「なにこれ江国香織の小説かよ…」と思ったのでなんとなくそれっぽく仕上げてみました。あくまでもなんとなくなので悪しからず。タイトルもちょっともじっています。
文体の正体って何なんでしょうねえ。昔小説サイトをやっていたときに頂いた感想コメントで、谷川俊太郎っぽいと言っていただいたことがあるのですが、自分でははてな。そ、そんなにクリーンだろうか…。文体として好きなのはやはり幸田文かなあ。
今回のタイトルも好きな小説をもじっています。受験が終わったあと手持ち無沙汰な頃に読んだ思い出。

いろいろ書きたいことはあるのですが、追いついていません。今はちょっと面白いことを仕込んでいて、うまく花を咲かせられるといいなあというタイミング。いいご報告ができますように。
閑話休題、箸休めにこの空白の1.5ヶ月を無造作に振り返ります(お茶を濁すともいう)。

  • 東京をしょっちゅう離れた(現在進行形)

何故か9月から怒涛の旅行キャンペーンを始めてしまい、12月までの間に大阪・松本・鹿児島・パリ・リヨン・セネガル・徳島・しまなみ海道・ハワイ・函館・京都に行く予定です。ちょっと頭がおかしい。
セネガルは初のアフリカ大陸で、まさか人生でアフリカの地を踏む日が来るとは…といろいろなところで言い続けていますが、すっごく良かったのでお勧めです。アフリカに対する先入観があればあるほど面白いかもしれないですね。「あ、これはあるんだ!」「え、それはないんかい」っていう、先入観との答え合わせのような旅でした。あと、ずっと他人事だと思っていた”東京で消耗している”論争(論争?)について初めて納得しました。東京で暮らしていると間違いなく心がささくれ立つ、殺気を帯びる…。ひとびとの表情がまるきり違うもの。またいつか行きたいなあ、セネガル

  • 『百鬼オペラ 羅生門』を観に行った

満島ひかりさんと吉沢亮さんが好きなのですが、まさかの良席チケットが当たってしまい行ってきました。すごく耳に残る音楽、想像通りのエネルギッシュな満島ひかり(めちゃくちゃ小柄なのに一人だけエネルギー放出量の桁が違う感じ)、想像以上の吉沢亮(そんな姿も見せてくれちゃうのね…と普段のクールいけめんっぷりからは想像できない姿、とくに声)で幸せでした。そして帰り際に某幸世くん@モテキとすれ違ってしまい、7月に見た『髑髏城の七人』のときのお姿がフラッシュバックし一人で血圧上がる、みたいな事態に。運がよい。

  • いまさらだけど『逝きし世の面影』を読み始めた

大学時代に教授に紹介してもらったはいいけれどあまりの分厚さに断念していた本著ですが、kindle版でなんとかちょこちょこと読んでいます。文化は死なないけれど文明は死ぬ、江戸時代は(あるいは「江戸文明」は)死んだ、という部分がもやもやと引っかかっている。私が歌舞伎やパリを好きなのは、歌舞伎は江戸時代の「死骸」で、パリは「消えゆく文明」あるいはそれをリアルタイムで見られるというのが理由なのかしら、と考えたり。結局すべて現実逃避でしかないのかしら、と思ったり。

  • タロット占い(再履)

以前記事に書いたタロット占い、またやってもらいました。ちなみに今週末も別件の占いに行く。やはりアラサーにもなると占いは必修科目になってくるのでしょうか。一番お手軽なのはしいたけ占いだと認識しています。結婚したらもっといろんなことに迷わなくなるかと思ったけれど、結婚してもなお、むしろいっそう迷える子羊状態が続いているな…。手札は永遠に有効なわけではないので、切れるうちに切っておかないと、とも思う。


歌舞伎観劇はいっそう熱心に続けています。いずれまとめて書きますが、初めて三次元の人間にはまってしまって、イベントの多さに嬉しい悲鳴を上げている。ちょっとバブル感があるくらいの勢いで歌舞伎座ならびにその他の劇場に通っていまして、松竹カード会員にもなりましたし、お布施がはかどります。
あと2ヶ月、2017年を生き抜くぞ。2017という数字は結構好きです、7が好きなんだろうな。

(本当にあったかもしれない、いつかの)ぬるい夜

 ぽっかりと空いた時間をひとりで過ごせるということは、おとなとして大事な能力だ。

 なぜなら、歳をとると何かや誰かを待つことが格段に増えるからだ。仕事でも、プライベートでも。だから、ひとりの時間を持て余さない自分を誇りに思っていたし、そんな自分を--成熟途中ではあるけれど--大人の女性になった、とどこか感慨深く思う。

 

 出張で訪れたシンガポールは、折り目正しく、遊びどころのわからない国に見えた。ローマやパリと違って、ひやひやさせられることもなければ胸を打たれることもない。ある意味ビジネスにはとても適した、無機的な土地。

 スーツケースをチェックインカウンターで手放し、仕事からも解放されたフライトまでの数時間を、読書や買い物で費やす気にはなぜだかなれず、空港の案内図で見つけた屋上のバーに向かうことにした。そういえばここチャンギ空港は世界有数の空港で、探検するに値するはずだ。久しぶりに取り出した子供心が足取りを軽くする。おとなの女性に相応しい考えではないだろうか、とそのアイディアを自画自賛しながら。

 

 この地域ならではの湿った空気と数々のサボテンたち、そしてまばらな客たち、陽気な男性が弾くギターの音。それが私を迎えたものだった。

 そのバーは屋上にあるサボテンの庭のそばに併設されており、コの字型のカウンターの奥には酒瓶が並べられていた。飛行機のエンジン音が時折鼓膜を震わせる。それが嫌いではなかったし、駐機場の数々の機体を見てそのアンバランスさを気に入りさえした。サボテンと飛行機、なかなか思いつかない組み合わせだ。

 ギターの主は正しいのかよくわからないメロディを紡ぎながら、ウィンクを飛ばしてくる。スーツを脱ぎ、フライトのためのリラックスした服装に着替えているので、すこし幼く見える。けれど注文すればすぐにカールスバーグは運ばれてきて、そのなみなみと注がれた液体を見たとき、やっと緊張の糸が少しだけほぐれたのだった。

 

 日本時間の土曜朝に着く深夜便で帰るのは億劫だった。シンガポールを観光する十分な時間はなく、けれど日本に帰れば旅の疲れで夕方頃まで寝てしまうだろう。結局一日棒に振ってしまう。

 だからこそ開き直って、搭乗し座席についたらすぐに眠れるくらいの量は飲んでもいいだろう、と思った。幸いアルコールに弱すぎるわけでも、まったく酔えないわけでもない。疲れも手伝って、きっと2杯程度で切り上げることになるだろう。

 

 BGMはほとんど知らない曲で、だからこそぼうっとすることに集中できた。何も考えなくていい。今この場所で、自分の日常に繋がっているものは何もない。自分の居場所でも、責任のある何かでもないところで、名前のないただの20代女性でいるのは想像していたよりも穏やかなことだった。

 

 1杯目のビールを半分ほど飲んだところで、目の前のバーテンダーがもう1杯、グラスを置いた。視線で疑問を伝えると、彼は視線を誘導した。その先には、おそらく30代半ばくらいの、赤いTシャツを着た男性。今の気候によく合った格好だ、とぼんやりと思った。彼はにこにこと愛嬌を振りまきながら、当然のように隣の席に移動してくる。

 

「ビール、頼んでいないけれど」

「うん、それは僕から。一緒に飲んでくれる?」

 

 お酒に弱いふりをすることを考えたけれど、それまでのビールの飲み方でばれているだろうし、何よりお酒に弱い女性は1人でビールを飲んだりしないだろう。

 幸い搭乗までは1時間弱、軽く相手をしてタイミングを見計らって消えればいい。

 

「ありがとう。遠慮なくいただくわ。シンガポールの人?」

「いや、僕はオーストラリア人。シンガポールは旅行で来ていて、これから札幌に行くんだ」

「へえ、何しに?」

「スキーだよ!日本が大好きだから楽しみなんだ」

 

 節度のある距離と飲み方、会話。見るからに歳上なのに犬のような、無害そうな表情。心を許すわけではないけれど、暇つぶしにはちょうどいい時間の遣い方だ。

 日本に行くということは、とはたと考えついて「もしかして、羽田まで行くの?」と訊くと、「そうだよ」とひらりとチケットを見せられた。同じ便に搭乗するようだ。まあ面倒なことにはならないだろう、と高をくくって笑顔を返す。

 

 実際に彼は、警戒心を削がせるほどにジェントルだった。過度な詮索(「彼氏はいる?」「今何歳?」「何の仕事をしているの?」)はせず、ただただその場の雰囲気と音楽を楽しんでいるように見える。ほかにいる数少ない客にも声をかけ、そのたびに乾杯。ただただ、今この一瞬を可能な限り楽しみたいだけなのだろう、と思った。

 母国語でない英語で会話をしていることも手伝って、いつもよりも開放的な気持ちになっている自分を自覚する。大人になってお酒をのめるようになって、一人で異国の地に来ると、こういうことも起きるのだ。見知らぬ男の人にお酒を奢ってもらうなんて、まったく大人の女性そのものであるように思えた。

 

 他愛もない会話を続けていると、彼がもう一つビールを頼む。当然のように、私の前にももう一つそれが現れた。遠慮をするのもばからしくなって、目の前に並ぶビールグラス(空いたものがひとつ、飲みかけのものがひとつ、満杯のものがひとつ)を見て思わず笑ってしまう。なにをしているのだろう。隣に座る彼は、真っ赤なシャツに負けじと顔を赤く染めている。思っていたよりお酒に強くないようだ。

 時々心地よい風がバーを吹き抜ける。天井からぶら下がっている小型テレビはいろんなことをまくしたてているけれど、ほとんど頭の中に入ってこない。少しアルコールに酔いながら交わしているこの会話も、今は楽しんでいるようでいて結局このテレビとそう変わらない、記憶されない”瞬間”だろうという不思議な予感があった。記憶されなかった時間に、何の意味があるのだろう?いつかぼんやりと思い出して、その解像度の低さに愕然としながら、そんなこともあったと一笑に付すのだろうか?

 

 そろそろ行かなくてはね、と促されて、席を立つ。彼はさっさとカードを切っていた。お礼を聞くのもそこそこに、楽しい時間を過ごせてよかったよ、早くゲートまで行かなくちゃ、と屈託なく笑う。ジェントルではあるけれど、うっすらと感じさせる好意のせいで居心地が悪い。荷物をとって、クーラーのよくきいた屋内へ戻った。もう時間も遅いので、搭乗ゲートの近くにいる人々はみんな同じ便の乗客だ。

 彼の表情に少しだけ名残り惜しさを見た。私たちにとって、ビール2杯分(あるいは彼にとっては4杯分)の時間。皮膚の上のかすり傷にもならないそれは、記録しなければ記憶から零れ落ちるだろう。

 

 ゲートが開くのを待っている人ごみの中で、彼が突然声をあげた。あったはずのチケットが見つからないと言うのだ。もうゲートが開く直前で、バーまで戻るには結構距離がある。どうしよう、と無言で訴えられる。日本の航空会社を利用するので、近くにいた日本人のスタッフに声をかけた。

 

「この人がチケットなくしちゃったそうなんです」

 それを聞いたスタッフは彼のもとに行く。そっとすれ違って、私はそのままゲートを通った。なんて冷たいのだろう、と思いはしたけれど、罪悪感や申し訳なさはまるでなかった。私にとってビール2杯分の好意は、その程度のものなのだろう。

 

 彼が何かを言っている。その気になれば理解できるけれど、もう脳内チャンネルを日本語に切り替えているから、聞こうと思わない限り言葉として耳に入ってこない。外国語のいいところだ。その音を振り切って、というよりも纏ったまま気にもかけずに、機内に乗り込んだ。自分の席を見つけて、シートに体を預ける。アルコールのおかげで少しふわふわしている。一度目をつむったらすぐに眠れそうだ、と思ったが最後、次に覚醒した時にはすでに空の上にいた。

 もう顔すらも思い出せやしない。

いと短き秋のこえ

慎ましやかさがないくらいに突然秋がやってきましたね、東京。残暑に対する秋の戦闘力の強さを感じるレベル。普段はもっとじわじわと、気づいたら浸食されているようなゆるやかな波の寄せ方なのに、今年は襲来という言葉すら似合う。それゆえになんだか季節の乗り換えがうまくいきません。

無理やり秋色リップをつけても、ちょっとトーンの低いお洋服を身に着けても、「え、まだ夏?いやもう秋?」とすこし浮ついてしまう時期。せめて日が暮れたら秋と決めつけて、本を読みながら夜更かししたいなと思ったり。
そこで、一度読んだけれど、今また読みたい本について書いてみることにします。

  • 食欲が増す言い訳を、季節以外にも求めたい

夏があっさり去るのに文句を言いつつも、栗とか梨とか好きな食べ物の多い秋が来るのはうれしい。それに、これだけあっさり去られたので夏に名残りがあるように思うけれど、寒くなっていくのはなんだか身が引き締まる感じがして好き。
食いしん坊なので、文字からも食事を摂取したい。登場人物も、エッセイストも、おいしいものを目の前にするところから始まる物語たち。


女流作家4人によるアンソロジー。ヨーロッパの国々とそこでの人間関係、そして食事。同じ食卓を囲むということは、同じ成分を体内に取り入れていることと同じで、つまり数パーセントくらいは同じ人間になっている、と言えるのかもしれない。そんなことを考える本。

旅行者の朝食 (文春文庫)

旅行者の朝食 (文春文庫)

貧乏サヴァラン (ちくま文庫)

貧乏サヴァラン (ちくま文庫)

食べることが好きな人、こだわりがある人ってなんだか好き。信頼できると思う。自分の体内に何を取り入れるかに、真正面から向き合っていられることは誠実だと思うので。そういうひとたちの文章が信頼できるのは、言うまでもないことだ。

  • 自分ではない誰かの関係性の疑似体験、あるいは迷い込む

流しのしたの骨 (新潮文庫)

流しのしたの骨 (新潮文庫)

江國香織作品を読まなくなってしばらく経つけれど、中高生の時に読んだこれはいつまでも人に勧めてしまう。兄弟がいることへの憧れなのかもしれない。自分を正しく理解してくれている、と思える人がいるのは素敵なことだ。

四季 春 (講談社文庫)

四季 春 (講談社文庫)

森博嗣作品はどれも好きで、S&Mシリーズを特に愛読しているけれど、四季から読み始められたらまた違った読書体験になっていただろうと思う。すべFはドラマ化しましたが、四季は春~冬まで4作ほんとうにうつくしい構成。今から春と夏を追体験しましょう。

台所のおと (講談社文庫)

台所のおと (講談社文庫)

幸田さんの文章はいつだって冬のつめたい朝の台所に立つ母の後ろ姿を思い出させてくれる。人気のない家の中、温度がまばらな部屋で、まな板の上の包丁の音がするどくあたたかく聴こえる不思議。安心するし、背筋がのびる。


気づいたら自分の中にしっかりと根を張っている作品ばかりを挙げてしまった。
食べてきたもので人が構成されているのと同じように、摂取してきた文字によっても人の構成は変わると思う。誰かの秋の夜長のお伴ができますように。